帝人君とお姉さんです


【夏くらいから姉さんのマンションで一緒に暮らしてもいいかな?】
【ほら、今広い高級マンションで暮らしてるっていったよね?】

 きっかけは、チャットの内緒モード設定で、弟が発した些細な一言だった。
 一対一の話があるときは、普段は電話で事足りてしまい、弟との内緒モードでの対話はこれが初めてになる。あまりに珍しい、というかこれまでなかったことに私は一瞬見間違いかと目を見張った。だが、それは決して夢や幻でなかったようだ。幾度か目を瞬かせた後も消えないそれを、現のものだと判断するのに要したのは、数秒というチャットという機能の中では決して短くない時間だった。
 その遅れを取り戻すように、頭では考えずしも、手がキーボードの上で勝手に踊った。それはこれまでのチャットの中で、私的に最もスピード感溢れる返事だった。

“なんで! どうして! 元々住んでたアパートはどうなったの!”

 慣れた動作でした指先が打ち出したのは、尤もな疑問だった。直接的すぎる質問かもしれないと後から思った。だが、この場合、返答がしやすいように気を使うべきは弟なのであり、私の義務ではないなと思い直す。
 一見シビアなようだが、ここで少しでも私が妥協したら、それは対等な兄弟関係とはいえないのだ。互いが地をつき通し、また、その上でわがままを言い許しあえる存在。それが兄弟という関係に対する、私の持論なのだから。
 尤も、これは考えなしに返事を書いた私自身への、理由付けであり言い訳なのだが。
 それについて、弟からの返事は意外に早かった。思いつきの言い訳を文字にするという愚行を犯す未来から、私は逃れることができたようだ。

【厄介な人に、アパートの場所がバレちゃってさ】
“厄介な人?”
【まあ、趣味関係で知り合っちゃったとでも言っておく】
“趣味って……!”
“もしかして、あんたまだダラーズのボスやってるの!”
“私、あれほど何回もやめなさいっていってたのに……”
【姉さん、妄想が働きすぎ。趣味としか言ってないんだからさ】
“じゃあ、ダラーズのことじゃないのよね?”
【それは】

 弟の言葉が止まった。というか、手が止まったのか。しばし沈黙が訪れる。
 私は思わず、ため息をついてしまった。

“ほら”
“ね、池袋って怖いところでしょ?”
“だから姉さんいったじゃない”
“やっぱり帝人には池袋より地元の方があってるわよ”
“悪いことは言わない”
“私、あんたの為を思って言うけど”
“帰りなさい?”
【やだ】

 即答である。帰りなさい、と打ってそんなにしなかったうちに、すぐに否定の返答が来た。
 それにしてもこれは困りものだ。いつもなら大抵のことは理解が早いのに、今回は全く聞こうとしない。わがままというものもほとんど言わなかった帝人がここまで主張するのは、珍しい。
 ただの物分かりのいい子だと思っていたのに、案外簡単にその概念を破られてしまった。お姉ちゃんは悲しい。

“……”
“なんでそんなに池袋にこだわるの”
“高校なら地元にもあるし”
“友達もいっぱいいるじゃない”
“理由”
【非日常が好きって話は前にしたよね】
“帝人、あんた”
【ちょっと待って】
【全部話させて】
“……うん”
【最初に来良に来たいって、池袋に来たいって思ったのは】
【非日常を求めてたから】
【正臣がいた、とかそういうのもあったけど】
【それよりも、僕は経験したことのないそんな刺激を感じてみたかった】

 帝人の独白が始まった。
 沈黙を約束した私は、画面にどんどん浮かんでいく、新しい文字を目で追う。

【姉さんには言ってなかったけど姉さんと正臣が池袋に行ってから】
【地元で毎日のように繰り返される日常は、つまらなかった】
【同じ道同じ方法で学校に通って】
【同じ席同じ友達同じ空間で同じようにシャーペン握って】
【同じパターンのお弁当を食べながら見る景色もいつも同じ】
【同じ道同じ方法で家に帰って】
【ご飯食べてパソコンいじって宿題してお風呂入ってパソコンいじって寝る】
【同じ同じ同じ同じ同じ同じ】
【飽きた】
【つまらない】

 目がちかちかなってきた。
 眠気覚ましにコップの中身をぐいっと飲んだ。苦い。

【そこで考えたんだ】
【姉さんと正臣がいた頃のこと】
【いや、考えたっていうか、思い出したっていう方が近いかな】
【毎日違う、毎日が日常じゃなくて、そう、】
【非日常が僕の日常だったこと】
【探検したり、悪戯したりさ】
【怖かったけど楽しかったなーって】
【あんな日々が、もう一度だけでもいい】
【もう一度だけでもいいから、僕に訪れないかな、なんて】
【それで、そう思った時、気付いたんだよ】
【なんで僕が傍観者に徹する必要がある?】
【なぜ主観者に、主権者にならない?】

 思わず、背筋がぞっとした。
 弟からダラーズという組織のことは聞いていた。それと、それの創始者が彼であることも。
 いまやダラーズは、とても有名なカラーギャングとなってしまった。だが創始当初は、お遊びでできたものだった。あんな無邪気に至極楽しげに電話でそれを報告してきた弟。その歓喜はただ単に、新しいおもちゃが手に入って嬉しがっている程度にしか捉えていなかった。いや、それはあっただろうが、それ以上にそんな狂気ともいえる非日常への渇望があるとは知らなかった。
 非日常という未知の世界。弟はどんなにその世界に憧れていたのだろう。それがこれまで思っていた以上であることに、畏怖と『歓喜』を、した。

【僕はダラーズという非日常の長になった】
【そしてダラーズは今や、池袋を拠点として暴れ出すようになってしまった】
【僕にはダラーズを制御する義務がある】
【池袋から離れたくない理由はこれで十分でしょ?】

 これまで、容易に画面越しに思い浮かべることができていた帝人の表情が、急に薄っぺらい虚像になった。にこにこと、弟ながらに人の好さそうな、虫も殺せなさそうに笑う弟。その中にあるものは、その表情と等号で表すことができて、しかしできない。
 ごくり、と唾をのんだ。思わずせりあがってきたものも一緒に、飲み下すように。
 これは『期待以上のもの』だ。『この姉あれば、この弟あり』といったところか。いや、それにしても嬉しい誤算といっておこう。

“いいよ、うちに来なさい”
【ほんと!?】
【ありがとう……】

 いきなり意向を変えたのは、帝人が完成品であることを知れたからだ。如何せん、未完成なままだったら池袋に置いておくのは嫌だった。未完成のものというのは人にしても物にしても、酷く脆く崩れやすいから。それに対して、完成品というものはそれのレベルやジャンルに拘らず、崩れにくい。
 池袋は危険な街だ。肉体的にも、精神的にも。しかし完成品だというのなら、未完成よりもその危険性が激減する。だから、弟を置いておいても大丈夫だと判断した――いや、正直に言った方がいいだろうか。
 帝人には帝人の信条や好みがあるように、私にも私の信条や好みがある。帝人のそれは「非日常」に向かったのだけれど、姉である私のそれは「危険な人物」に向かったのだ。スリリングな体験を私に提供してくれる人物。弟がそれに当て嵌まったから、今回は近くに置くだけだ。
 しかし、まだ言っておくべきことはある。私は続けて手を動かす。

“ただし、条件があるの”
【?】
“実はね、言ってなかったけど、姉さんある人と同棲してて……”
【え】
【勿論彼氏だよね】
【それ、僕が行っちゃまずいんじゃ……】
“いいの、そういうの気にしない人だから”
“私からもお願いするし”
“それより”
“その同居人が誰であっても、後悔しないこと”
“これが条件”

 我ながら酷な条件だと思う。
 しかし帝人はそれに対して、何も考えなかったようで(いや寧ろここは、考えた上でも、他に選択肢がなかったからと仮定した方がよいのかもしれない。彼は間違いなく、あのダラーズの創始者なのだから)、了解、と返してきた。

“じゃ、内緒モードから戻るねー”
【あ、そっかー】
【甘楽さんとかセットンさん待たせちゃったよねー】
“まあ甘楽さんならいいでしょw”
【ちょ、姉さんw】

“戻りましたっ”
【僕もです】
<もーう、太郎さんとさんったら、おそーい!>
<セットンさん、落ちちゃいましたよっ?>
<私も何回も落ちちゃおうか悩んだんですからー>
<ぷんぷんっ>
【すみませんwてかぷんぷんてw】
“甘楽さん気持ち悪い〜(笑)”

 これから始まる日々に、画面を見ながら思わずにやけてしまう。
 弟と、同居人、そして私。
 楽しくなりそう、楽しくならないわけがない。寧ろ楽しくして見せる自信はある。

「ねー、甘楽さんっ」
「はいはいうるさい」
「機嫌悪くしないでよー」
「今の状況見てから言って! チャットやりながら仕事してるんだよ」
「知ってる上だ」
「尚悪い」
「てかチャットやめなよ!」
「やだねー。俺から趣味を取らないでよ」
「ま、それはともかくー。お願いなんだけど」
「うん?」
「弟も一緒に住んでいい?」



危険性に満ちた好奇心の結果

 
 


帝人夢かと思わせといて、やっぱり結局は臨也だったオチ。
無駄に長い。原稿用紙17枚分だってよ。
 

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